New York Hardcoreニューヨークハードコア・シーンについて
(1980-1990)完全版PART-1

𝄃ニューヨーク・ハードコア・シーンが遅れた理由

ニューヨーク・ハードコアは、ロサンゼルスやワシントンD.C.、ボストンなどのハードコア・シーンと比べると、発展が遅れていた。その当時の状況を記録しているのが、1981年10月に発行された『Damaged Goods』ファンジン第7号である。そこには、Henry Rollins(ヘンリー・ロリンズ)がLyle(ライル)宛に送った手紙が掲載されており、当時のシーンの空気が生々しく伝わってくる。


出典:jointcustodydc.com

その手紙の内容はこうだ。「ニューヨークの大手音楽雑誌によるハードコア特集にはうんざりだ。ニューヨークのハードコア・シーンはワシントンD.C.の模倣にすぎないのに、ワシントンD.C.のバンドは注目されない。ワシントンD.C.のバンドの方が若く、優れている。ペパーミント・ラウンジでのBlack Flag(ブラック・フラッグ)のショーのために、ワシントンD.C.のクルーがニューヨークに乗り込む。ニューヨークのハードコアがどんなものか見てみよう。たいしてハードじゃないと思うが」。

実際に、Black Flag(ブラック・フラッグ)のライヴを観るために、ワシントンD.C.から多くのファンがニューヨークに訪れた。彼らはスラムダンスを始めたが、当時のニューヨークではまだパンク・ロックが中心で、ライヴではポゴダンスが主流だった。誰もスラムダンスを見たことがなかったため、場内は混乱し、喧嘩に発展した。ワシントンD.C.のハードコア・クルーが敵意を煽る形となり、ニューヨークのシーンが遅れていることが露呈した。パンク・ロックはニューヨークから始まったが、ハードコアに関しては、ニューヨークは後れを取っていたのだ。


出典:Todestrieb

その後、The Mob(ザ・モブ)がボストンからSS Decontrol (SS ディコントロール)を招聘。彼らのライヴでは、ダンスフロアがボストン対ニューヨークの様相を呈し、ニューヨークのモッシュが本格的に始動した。1988年、Judge(ジャッジ)のデビューEP『New York Crew(ニューヨーク・クルー)』がリリースされると、Slapshot(スラップショット)のChoke(チョーク)がその中のボストンに言及した歌詞に激怒。ニューヨークとボストンのハードコア・シーンのライバル関係は、今もなお続いているという。


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ニューヨークがハードコア化に遅れたもうひとつの要因は、DIYレーベルの不在である。東海岸のワシントンD.C.には、Minor Threat(マイナースレット)のIan MacKaye(イアン・マッケイ)が運営するDischord Records(ディスコード・レコーズ)があり、ボストンではSS Decontrol(SSデコントロール)のAl Barile(アル・バリレ)がX-Claim Records(エックス・クレイム・レコーズ)を立ち上げた。西海岸のロサンゼルスでは、Black Flag(ブラッグ・フラッグ)のGreg Ginn(グレッグ・ギン)がSST RECORD(SSTレコード)を運営し、サンフランシスコにはDead Kennedys(デッド・ケネディーズ)のJello Biafra(ジェロ・ビアフラ)によるAlternative Tentacles Records(オルタナティブ・テンタクルズ・レコーズ)があった。中西部では、Tesco Vee(テスコ・ヴィー)に始まり、後にNecros(ネクロス)のCorey Rusk(コーリー・ラスク)が引き継いだTouch and Go Records(タッチ・アンド・ゴー・レコーズ)が存在した。


これらの都市には、シーンを牽引するバンドと、そのリーダーが運営するレーベルがあった。一方、当時のニューヨークにはそれが存在しなかった。ニューヨークの魅力でもあり弱点でもある多様性が、強力なリーダーの出現を妨げていたのかもしれない。