AMERICAN HARDCOREアメリカン・ハードコアについて(総集編)

アメリカン・ハードコアとは

ここではアメリカ全土のハードコアシーン全般を紹介した本、スティーヴン・ブラッシュ著書の『アメリカン・ハードコア (Garageland Jam Books)』と、その本にインスピレーションを受け政策かれた2006年にポール・ラックマン監督の映画『American Hardcore: The History of American Punk Rock 1980–1986(アメリカン・ハードコア:ザ・ヒストリー・オブ・アメリカン・パンク・ロック1980-1986)』の二つを中心に、アメリカのハードコア・シーンを総まとめにした内容を語りたい。


映画『American Hardcore: The History of American Punk Rock 1980–1986(アメリカン・ハードコア:ザ・ヒストリー・オブ・アメリカン・パンク・ロック1980-1986)』では、ロスアンゼルスから、ワシントンDC、ニューヨーク、ボストン、テキサス、サンフランシスコなど、ハードコアがアメリカ全土に波及していった過程を中心に物語は進行していく。


1980年から1986年にかけてアメリカのアンダーグランドでは、ハードコア・ムーヴメントが勃発していた。1977年にイギリスで巻き起こったパンク・ムーヴメントの波がアメリカ全土に押し寄せてきた。

イギリスのパンクは、荒々しいギターをかき鳴らし、支配者階級を攻撃し、ワーキングクラスの怒りを歌った歌詞や、ストリートの真実の声などを歌い、従来の社会・価値観、旧来然としたロック・ミュージックを否定した。

出典:Red Bull

だがアメリカに渡ったパンクは、より速く、より重く、より暴力的に、イギリスパンクのファッション性とは対極にある、先鋭化されたハードコアへと進化した。パンクのサウンドフォーマットを、よりダーティーに、よりスピーディーに、より大音量で進化させ、ほとんどメロディのない、ノイズまみれのディストーションギターを高速の轟音でかき鳴らした。社会や政治に対する怒りや疎外感などの感情を、暴力と怒りで絶叫する。それがアメリカン・ハードコアだった。そしてハードコアはアメリカの全土の地域のアンダーグラウンド・シーンに波及していく。


1980年代アメリカ。日米貿易摩擦などの影響で経済が構造的な不況を迎えるなか、そのときの大統領であるロナルド・レーガンのとった政策は、レーガノミクスと呼ばれる、金持ちを優遇し、貧乏人に自己責任論を押しつける、格差拡大政策であった。激しい競争社会の中、貧困で希望のない閉塞的な社会に耐えきれず、ドロップアウトする若者は少なくなかった。そんなはじき出された若者たちが集ったのかアンダーグラウンドのコミュニティがアメリカン・ハードコアなのだ。

出典:Wikipedia

当時アメリカのメジャーな音楽シーンを席巻していたのは、ディスコやハードロックだった。キラキラしたライトに照らされて、華やかな格好をしたスターたちが、ラブソングをお金をかけたゴージャスなステージで壮大に歌いあげるコンサート。それに違和感を感じた若者たちが、よりリアルで熱気のあるハードコアシーンに集結した。


その怒りのパワーはすさまじく、ライヴハウスではつねに暴力が常態化していた。客席へのダイブ、バンドや客同士の殴り合い、蔓延するドラッグや酒など、カオスと犯罪化したライヴハウスで、パトカーが取り締まりに来ることがあり、警官との暴動に発展した。社会に対するいら立ちと、はけ口を求めた若者たちが集まる場だった。

出典:LOUDER

商業主義に反発する若者たちによって支持されたハードコアは、7大シーンのひとつであるワシントンDCで、花開いた。アメリカの首都であるワシントンDCでは、社会問題や権力闘争、革命の可能性に満ちた土地柄だった。ホワイトハウスでは、政治家たちが国民の生活を変える法律を制定。その一方で、街中のハードコア・シーンでは、バンドマンたちが同じように人生を変えるようなインパクトをあたえていた。Bad Brains(バッド・ブレインズ)やMinor Threat(マイナー・スレット)、Fugazi(フガジ)の曲は、差別や人種差別について対立的であり、ポジティブ・メンタル・アティチュードや、ストレート・エッジ(アルコールやドラッグを摂取しない)なライフスタイルを提唱していた。

出典:DRYATLAS

そしてアメリカン・ハードコアでもう一つ重要といえる哲学が、D.I.Y精神。D.I.Yとは(Do It Yourself)の略語で、自分のことは自分でやれ!という意味。その哲学はカルフォルニア州ロングビーチのSST Recordsから始まり、サンフランシスコのAlternative Tentacles Records(オルタナティブ・テンダクルズ・レコーズ)、ワシントンDCのDischord Records(ディスコー・レコーズ)、デトロイトからシカゴに拠点を移したTouch and Go Records(タッチ&ゴー・レコーズ)など、各地方ごとに様々なインディーレーベルを生み出した。ライヴをするため、自分たちの車で機材を運び、演奏できる環境ならどこにでもライヴをしに行った。地下室やガレージなどのその場限りの会場で開催される自主企画イベントも参画した。そのD.I.Y活動が各地方ごとにハードコア・コミュニティーを生み、それぞれその地域を代表するバンドが生まれ、独自のシーンが育っていった。どんなメッセージであれ、1980年代のハードコアパンクシーンは、ノイジーで速いサウンドで、尋常でないエネルギーと活力に満ちたシーンだったのだ。

出典:CVLT NATION