England Keep My Bones Frank Turner Epitaph 2011-06-01 |
11年に発表された4作目。彼らの最高傑作。最新作であるこの作品を最高傑作と決めつけるのは、気が早い気もするが、UKチャートで12位を記録するなど、このアルバムの評価もいままでなく高い。
基本的にはボブ・ディランのフォークロックに、現代的なロックや、イギリスの伝統的な音楽を取り入れさらに発展させたサウンド。前作と同じく、アコースティックギターをベースにしている。今作では前作以上に、テンポの速い曲が増え、フォーキーな曲が増えた。エモの静と動のアップダウンのある曲や、ブルース・スプリングティーのようなジャズやピアノを取り入れた熱い歌声のロックな曲、ボーカルのみのアカペラで歌った曲など、前作とは異なるタイプの曲が増えた。全体的に丁寧で上品に聴こえる傾向にあり、パンクのようにスカっとする曲がないが、音楽に対する熱い想いが伝わってくる作品だ。
そしてなによりこのアルバムの評価を高いものとしているのが、歌詞にある。今作の制作に入る前、前作の商業的な成功によって、もはや初期衝動という子供の気持の視点で歌詞が書けなくなったという。その視点で歌詞を書けば、真実ではないし、自分を欺くことになるから、書くことができなかったと述べている。今作では意識的にイングランド人として聴こえる音作りをし、イングランドの国際的なアイデンティティーがテーマになっている。たとえば前作だと、アメリカのビートジェネレーションの作家、ジャック・ケルアックからの影響があった。それが今作では、シェイクスピアの戯曲『ジョン王の生と死』から、インスピレーションを受けている。その内容は、イングランド史上最も悪評の高い、ジョン王を主人公にした物語。シェイクスピアの作品には、悲劇『リア王』や史劇『ヘンリー6世』など、イギリス王を題材にした作品を多く残している。だが、あえて人気のない悪名高き王をタイトルに持ってくるあたり、イギリス人らしいウィットなブラックユーモアに富んだ性格がうかがえる。
シェイクスピアを題材にした理由は2つある。ひとつは歌詞への引用。“アイ・スティル・ビリーブ”では、冒頭文のFriends, Romans, and countrymen(友、ローマ人、そして同胞諸君)は、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザ』で、アントニウスが市民へ向けて演説した内容からの引用。歌詞の内容は、ロックンロールで怒れるパンクスや労働者の団結を煽り、富を搾取する資本家たちを断罪している。そして2つ目はイングランドの国際的なイメージを歌詞のテーマにしている。たとえば、“イングリッシュ・カース”では、ノルマンディーから英国へ侵略した、のちのイギリス王、ウイリアムズの血なまぐさい戦争について歌い、“ウェセックス(サクソン人の別称)・ボーイ”では、酔っ払いや大道芸人などが溢れる賑やかな街について歌い、“リバー”では、何万年も流れるテムズ川下流で住んできた人々のことを思い巡らしている。そこではイングランドの歴史を振り返り、その場所で暮らしてきた庶民階級の人々のことを思い巡らせている。イングランドの歴史を紐解きながら、自らの出自であるサクソン人であることへの誇りを強いものとしている。フランク・ターナーのアイデンティティーであるイングランド人であることと、そして反権力に満ちた性格の根源をなしている部分を、この作品でより明確にしたのだ。自らの出自や自国の歴史を紐解いて反社会的な考えを明確にした。安易な言葉かもしれないが、まさしくパンクといえる作品だ。前作と比べると若干、皮肉っぽさが失われて気がするが、それも怒りの矛先がより明確になったためだろう。彼の弱者をいたわるやさしさは失われていないし、なにより反社会性も失われていない。理由の分からない苛立ちを抱えていた子供の感情から、怒りの矛先が明確になった。それが音楽へのモチベーションとなり、最高傑作を生んだのだ。