CRASS:There Is No Authority But Yourself
(クラス:ゼア・イズ・ノー・オーソリティー・バット・ユア・セルフ)

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ポニーキャニオン 2014-09-17
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映画、『CRASS:ゼア・イズ・ノー・オーソリティ・バット・ユアセルフ』のDVD盤。クラスとは77年にイギリスからデビューしたパンク・バンドで、アナーキー&ピースをスローガンに、D.I.Y(自分のことは自分で行動しろ)や、反戦、反核、フェミニズム、動物愛護、環境保護などのメッセージを発信したバンドである。とくにサッチャー政権に対しては、徹底した批判活動をした。イギリスとアルゼンチンが戦争に突入したフォークランド紛争に対しては、過激な行動に出た反対運動を行った。その活動はのちにアナーコ・パンクと呼ばれ、パンクの新しい概念や解釈を創り、さらに定義を押し広げることに貢献したのだ。当時セックス・ピストルズやクラッシュの過激な発言や派手なファッションがパンクの陽の部分であるなら、黒服に身をまとい誰からも制約の受けないインディーレーベルからのクラスの活動は、徹底したアンダーグランド志向だった。まさにパンクの陰の部分を担っていたバンドだったのだ。

 

肝心の映画の内容だが、過去のバンド活動への振り返りと、現在の活動について、2つの事柄が語られていた。とくに個人的に興味を持ったのが、現在の彼らの活動について。彼らは現在も大自然に囲まれたダイヤル・ハウスに住んでおり、自給自足の生活を行っている。60歳をすぎた現在も、ポリティカルな反体制的な活動を続けている。ただし80年代のような、バンド活動を通じてレーガンとサッチャーの会話を捏造した偽テープをマスコミに送りつけるという、ラディカルな行動はしていない。中心メンバーであったドラムのペニー・リンボーは現在、バンド活動そのものにも興味がなくなっているようだ。(そもそもバンド・サウンドを作っていたのはフィル・フィリーとアンディー・パーマで、ペニー・リンボーはおもに作詞面を担当していた)

 

現在、彼らが行っている活動とは、グローバル企業や富裕層への抗議。食料を自給自足することによって、グローバル企業の商品を、なるべく買い控えるといった不買運動や、クラスのロゴが入ったTシャツを着ていたベッカムのような富裕層への批判といった活動をしている。(クラスのロゴのTシャツを着ているベッカムは、ロゴの意味や著作権の侵害だという事実をまったく知らないで着ている)ベッカムへの批判の理由は、クラスのロゴという著作権が無視され、クラスのメンバーの元にお金が入ってこないからだ。その事実を映画を通じて訴えかけている。だがグローバル企業に対する抗議活動は、不特定多数がレコードを聴いて彼らの行動を知ることができるクラスのころよりも、はるかに効果が小さい宣伝活動だ。映画のなかだけでひっそりと語られ、80年代のころよりもはるかに世間に訴えかける行為が希薄なのだ。その活動はまるで隠居した隠者のような控えめな行動だ。そこが個人的にはものすごく惜しいと感じ、残念に思えた。クラスの元メンバーが現在もなぜグローバル企業を否定して、過酷な自給自足な生活をする理由を、もっと具体的な意見を持って、映画のなかで語ってほしかった。そして怒りをもって真実を訴えかけ、行動に出て欲しかった。

 

映画ではグローバル企業に対して具体性を持って語られてはいなかったが、たしかに恐ろしい存在であることに間違いはない。村上龍の小説『愛と幻想とファシズム』では、グローバル企業の顛末は、恐ろしい世の中になると予見していた。その物語は、人間が生きていくうえで必要なインフラと衣・住・食すべての供給を握ったグローバル企業が、国家の権力を超越し、聖書に書かれている<最後の審判>が行われるという話だ。その最後の審判とは、グローバル企業の傘下に入ることができる企業と、入れない企業(資本金の援助を受けられず倒産していく企業–働き給料を得ることができない従業員には死が待っている)との、選別が行われる。グローバル企業の利益を追求する姿勢には、倫理観や人権は介在しない。人々は生きる権利もなく、奴隷や機械のように働かされ、利用価値がなくなれば、使い捨てられる。まるで窓のふちで死んでいる昆虫のように、誰にも知られることなくのたれ死んでいく。グローバル企業の行き着く末には、そんな恐ろしい世界が待っていると、懸念しているのだ。現に日本では経済同友会(日本の大企業のトップが集まった団体)の会長、長谷川閑史(やすちか)らによって、残業代ゼロなる恐ろしい法律(彼は段階的に300万円まで法案の引き下げを求めているようだ)が国会に提案された。そして安倍内閣と自民党の合意によって、法案が施行された。グローバル企業が支配する世界というのは、あながち絵空事ではなくなりつつあるのだ。

 

そんなグローバル企業に立ち向かっていく手段としてクラスのメンバーが選んだ方法論は、だれにも頼ることのない自給自足という生活なのだ。しかしながら映画でも語られていたように、自給自足という生活は、蝿が大量発生する水飲み場や、自分たちの排泄物を肥料にする循環システムなど、人間が日常の暮らしで求めている快適性や便利さとかけ離れている。つねに異臭や不衛生さが付きまとう自給自足生活は、クーラーや衛生上清潔な環境で快適な生活をしている我々からすれば、地獄のような過酷な環境なのだ。もはやwindowsやappleなどのパソコンやスマートフォンやアメリカ大手石油7社から享受しているガソリン、食料etcなどの商品を不買して生きていくことは不可能だ。もはやグローバル企業を否定して生きていくことは不可能なのだ。

 

だからといってグローバル企業の言いなりになってはいけない。村上龍の小説のような最悪の事態に陥らないため、グローバル企業の動向を監視する必要はある。誰かがグローバル企業の思惑を、インターネットや雑誌、音楽、テレビ、ラジオなどのメディアを通じて、訴え続けていかなくてはいけないのだ。今回、そんな役割をクラスのメンバーに期待してしまった。映画を通じて、グローバル企業の実態や、対抗手段を、もっと具体的に説明してくれてもよかったのではないかと思えた。その部分がものすごく惜しいと感じたし、現在のクラスの物足りなさを感じた最大の要因だった。映画のなかでボーカルのイグノランドは、「今の若者は大人しすぎる、闘争やデモといった手段で行動に出ようとしない」と嘆いていた。たしかに貧困に喘いでいるのは、若者のほうが圧倒的に多い。いつの時代も若者が立ち上がらなければ、何も始まらない。だが知識や見識のない若者たちに、デモや闘争を促すトリガーという存在にクラスはなってほしかった。そしてなにより、同じ気持ちと境遇で、怒っている世界中のパンクスの団結を促す遠因になってほしかった。私自身、酷な要求をクラスに求めていると思うが、そのあたりがものすごく残念に思えた。もし映画を通じて訴えかけてくれたのなら、クラスの評価がさらに高いものとなったと思うが。